瓦礫の中のゴールデンリング

アニメを作ってます。アニメがお仕事です。

「真実」についての続き。その2

・(104ページ)吉野作造の論文からの引用。

「震災地の民衆を大混乱に陥れた所謂『鮮人襲来』の流言の出所に就いては、説が区々として一定しない。警視庁幹部の説によれば(大正十二年十月二十二日の報知新聞夕刊所載)流言の根源は、一日夜横浜刑務所を解放された囚人連が、諸所で凌辱強奪放火等の有らゆる悪事を働き廻つたのを、鮮人の暴動と間違へて、何処からともなく、種々の虚説が生まれ、ほとんど電光的に各方面に伝波し、今回の如き不祥事を惹起するに至つたのだといふ。(略)また関東自警団総同盟其他の調査に依れば、流言の最初の出所は横浜であり、それが高津方面から多摩川を越えて、渋谷蒲田大森品川等を経て帝都に流れ込んだのである。流言飛語の出所に就いては、今尚ほ疑雲に包まれて居るが、当時、此の流言に対する官憲及軍憲の処置が、当を得ざりし事は之を認めざるを得ない」

吉野はここで、流言の出どころについて、説を引いているものの「今尚ほ疑雲に包まれて居る」として断定はしていない。
・(105ページ)工藤が、吉野の論に対して

吉野作造にしてこうも簡単に事実を見逃した上で、「流言」で落着させたのはどういうことだろうか。/「警視庁幹部の説」というが、横浜で止むを得ず解放した囚人はあくまでも「鮮人襲来」に当たって警備の手遅れを補うためであったことが証言されている。/彼等は監獄に戻れば刑期の短縮などの恩恵が待っていたはずである。よしんば、いっとき解放された囚人の一部に暴挙に及ぼうと考えた者がいたとしても、彼ら囚人が市内を荒らしまわったとの説は、何か都合の悪い部分を隠蔽するための意図的な作為が感じられてならない」

見逃された「事実」とは「材木屋に火を点ける朝鮮人」など、工藤が挙げている「証言」にある例のことである。
不思議な批判である。工藤の引用から吉野の議論をみれば、警視庁幹部の説や他の調査から説を引いているが、結局「今尚ほ疑雲に包まれて居る」のであって、流言の出所は「分からない」のである。こういう説もある、と新聞記事からピックアップした話に過ぎない。
ところで、囚人が暴れたという警視庁幹部の説が怪しげであることは確かだが、工藤は輪をかけて凄い。横浜刑務所は9月1日に火災で焼失し、午後6時に囚人が解放されているが、これは監獄法22条に「天災事変ニ際シ監獄内ニ於テ避難ノ手段ナシト認ムルトキハ在監者ヲ他所ニ護送ス可シ若シ護送スルノ遑ナキトキハ一時之ヲ解放スルコトヲ得」とあるのを根拠にしているのであって、警備を手伝うというような目的で「超法規的」になされたことではない。そのようなことが刑務所官吏らによって「証言されている」のだろうか。おそらく、工藤の念頭にある「証言」とは、先に見た細田勝一郎のもの(囚人を看守が指揮し、朝鮮人と戦闘で100人以上殺したという内容)だ。
「彼等は監獄に戻れば刑期の短縮などの恩恵が待っていたはず」であれば、その恩恵に浴した囚人がいてもよさそうだが、そんな話はない。
・ちょっと飛ばして、(120〜121ページ)不審火について。工藤は、

「二日の午後になって新しい火災が発生するということは常識では考えにくい。罹災者は避難し、その後はもはや燃える物は燃え尽きていたはずだ。そうした不審火は市内各所から発生したが、牛込や四谷、市ヶ谷付近の発火はいかにも不自然な時間に発生している。/多くは空家、小学校、印刷所、商業ビルなどから発火したのだが、いったいどんな可燃物が貯蔵されていたというのだろうか。/一般的に可燃物の薬品とは次のような物質が危険物として当時から指定されていた。/硫化リン、硫黄、赤リン、マグネシウム、塩素酸塩類、硝酸、過マンガン酸塩類、黄燐、ニトロ化合物、それに純度の高いアルコールや石油といったところだ。/大正十二年の一般的な家庭や町内の小学校、商業ビル等にそのような発火性の強い薬品が貯蔵されていたとでもいうのだろうか。/風上に逃げたにもかかわらず、不審火の発火のため一帯が火の海と化し、落命した市民の数は知れないほど多い。/横浜で目撃されたように、朝鮮人の放火があったとされるゆえんである」

と書いている。東京市部の出火は、119ページで工藤が書いている通り、134か所だとされている。これは震災予防調査会の報告、東京市の「東京震災録」の記事によるものとして一般に知られている。
「東京震災録」は今のところ参照できないので、手元の「現代史資料6」に収載されている、政府の「震災後に於ける刑事事犯及之に関聯する事項調査書」をみると、市内の出火を138か所(警察の管区で分けているため、郡部の6件を含む)としており、ほぼ数は一致する。その出火場所、時刻、推定される原因が全て記されているが、放火は8箇所、うち朝鮮人によるとされているのは3箇所で、うち2件は「氏名不詳鮮人」によるもので要するに誰だかわからない人物の仕業ということになっている。残り1件も放火したとされるその同時刻に同じ敷地内の倉庫では飛び火によって発火しているうえ、自警団による取り調べの形跡しかない。3件とも出火は9月1日の夜で、他に放火とされている5件は、2日午前4時半(広尾町)、3日午後1時(荏原郡大崎町)、4日午前2時(麹町)、4日午後3時半(麻布日ケ窪町)、5日午後6時(広尾町)。このうち3件はすぐに消し止められたとあり、残りのうち1件は悪戯ではないかとされている。放火ではないとされている事例を見ても、工藤の指摘に当てはまるような「不審火」の出火はない。工藤は、一体、何処からその「不審火」の情報を得たのだろうか。
・(121ページ〜122ページ)

東京市内の不審火出火の代表的な例を二ヶ所確認しておきたい」

さて、その第一。

「火に見舞はれなつたが唯一の地として残された牛込の二日夜は不逞鮮人の放火及び井戸に毒薬投下を警カイする為めに青年団在郷軍人団及び学生の有志レンは警察官軍隊と協力して徹宵し横丁毎に縄を張つて番人を付し通行人を誰何する等緊張し、各自棍棒、短刀、脇差を携帯する等殺気が漲り、小中学生等も棍棒をたづさへて家の周囲を警戒し、宛然(注・あたかも)在外居留地に於ける義勇兵出動の感を呈した。市ヶ谷各町は麹町六丁目から平河町は風下の関係から火の粉が雨の如く降り鮮人に対す警戒と火の恐れで生きた心もなく戦場さながらの光景を呈した。牛込佐土原町では二ケ所に於て鮮人放火の現場を土佐協会の大学生数名が発見、直ちにもみけした。又三日朝二人づれの鮮人が井水に猫入らずを投入せんとする現場を警カイ員が発見して直ちに逮捕した」(9月4日付の新聞)

勿論、前記の文書にはこの「朝鮮人の放火」は出てこない。しかも、読めば判るように「二日の午後になって新しい火災が発生するということは常識では考えにくい。罹災者は避難し、その後はもはや燃える物は燃え尽きていたはずだ」という指摘に反し、この記事で言われているのは9月2日の夜になっても炎が止まず、市ヶ谷付近が風下であるために火への警戒を怠れなかったということである。
・(122〜126ページ)第二の例は、月島の住民と思しき人物の証言。工藤はなぜか、相生橋を通って月島に避難してきた人物の証言だとしている。隅田川を越えて月島にも火が迫り、住人達は一号地(現在の月島)から三号地(現在の勝どき)へと避難し、火薬庫に囲まれた中で不安な時を過ごす…というところから、

「これより先、越中島の糧秣廠にはその空地を目当てに本所深川辺りから避難してきた罹災民約三千人が雲集してゐたところが、その入り口の方向に当つて異様の爆音が連続したと思ふと間もなく糧秣廠は火焔に包まれた。そして爆弾は所々で炸裂する。三千人の避難者は逃場を失なつて阿鼻叫喚する。遂に生きながら焦熱地獄の修羅場を演出して、一人残らず焼死して仕舞つた。月島住人は前記の如く土管内に避難し幸ひに火薬庫の破裂も免れたため死傷者は割合少なかつた。それだけこの三千人を丸焼きにした実見者が多かつた」(9月6日付の地方紙)

関東大震災における死者数の多い場所として有名なのは陸軍被服廠跡周辺で、避難してきた約38000人が火災で亡くなっている。しかし、その他に3000人もの人が一度に亡くなった場所は記録されていない。月島三号地から越中島は1.5キロほど離れた対岸で、火災の様子は勿論眺められただろうが、3000人というような数字がどこから出たのかは不明である。
工藤は、

「もとより糧秣廠とは軍が馬の秣を収納するだけの簡素な倉庫である。爆弾などが置いてあるはずもない。広さは広いが火の気に警戒してきたのは軍の常識である。そこへ爆発物の音が連続して聞こえ、火の海になったというのは尋常ではない」

として、この後に記事に出てくる「朝鮮人の爆弾投下犯」の話への伏線を張っている。ちなみに、糧秣廠は馬の秣だけでなく兵士の食糧も扱っている。また、越中島が燃えたのは9月1日夜だが、先立って午後に北の清澄公園の消火活動にガソリン式ポンプが糧秣廠から貸し出されているので、爆弾はないにしても燃料はある。軍馬の飼料倉庫は本所にあったそうだが、越中島の本廠でも貯蔵していたなら、干し草は燃えやすいし、しかも越中島は北からの炎によって延焼したのだから、爆弾などなくても炎上したこと自体に不思議はない。むしろ、爆弾を使った者がいたなら、炎に包まれた現場からどこに逃げるというのだろう。
段々まじめに書くのが馬鹿馬鹿しくなってきたが、この証言の続き。

「而も鮮人の仕業であることが早くも悟られた。そして仕事師連中とか在郷軍人会とか青年団とかいふ側において不逞鮮人の物色捜査に着手した。やがて爆弾を携帯せる鮮人を引捕へた。恐らく首魁者のひとりであろうといふので厳重に詰問した挙句遂に彼は次の如く白状した。/『われわれは今年の或時期に大官連が集合するからこれを狙つて爆弾を投下し、次で全市到るところで爆弾を投下し炸裂せしめ全部全滅鏖殺(注・皆殺しの意)を謀らみ、また一方二百二十日の厄日には必ずや暴風雨襲来すべければその機に乗じて一旗挙げる陰謀を廻らし機の到来を待ち構えていた(略)』/風向きと反対の方面に火が上つたり意外の所から燃え出したりパチパチ異様の音がしたりしたのは正に彼等鮮人が爆弾を投下したためであつたことが判然したので恨みは骨髄に徹し評議忽ち一決してこの鮮人の首は直に一刀の下に刎ね飛ばされた」

工藤が引用していない部分には、他にこのとき捕えた朝鮮人27人が処刑された旨、その処刑方法の詳細を含め出ている。工藤は日本人がどのように朝鮮人を殺したのかあまり言及したくないらしく、そのことには触れていない。
この証言者が意図して嘘を喋っているとは考えにくい。だが、たとえば尋問がどのように行われたのか、ということはこの記事からだけでは判明しない。「朝鮮人が陰謀を白状した」というのが伝聞である可能性も高い。月島の様子については、他の資料をみているとこの記事にいろいろ新しい疑問が湧いて来たので、引き続き調べてみようと思う。
この話に限らず、「犯人である朝鮮人を殺した」ことで、その身元も不明で自供したという内容の真偽も不明というものが多い。殺した側の言い分しか残っていないのだ。そして、冷静に考えれば、震災の中朝鮮人だけが組織的に放火して廻るなどということはまず有り得ない。
で、工藤は

「大前提として、まず朝鮮人がどんな主義主張があったにせよこの大震災に乗じて無辜の市民多数を殺傷したこと、集団をもって市民を襲い、結果として尋常ならざる恐怖感を与えた故の結末であることを忘れてはならない」

などという。実際にあったことは、上記の文の「市民」と「朝鮮人」を逆にしたことだった。(続く)