戸惑う。
この前放映された演出担当の某作品、特に問題なく納品まで終わり、視聴者の反応も割と好評だったようなのだが、何故か演出とは別に演出補佐がクレジットされている。カッティング(編集)はコンテ撮で、監督がやったあとという状態からこちらに依頼が来てスタートだったし、スケジュールの関係上、制作の判断でラフ原画のチェック後、原画チェックはスルーというタイトなものだったけど、その工程で演出のチェックを誰かに分担してもらったという覚えがない。全カット自分でみているはずで、リテイクを手伝ってもらったということもない。あるとすれば…、こちらがかかわっていない最初のコンテ撮素材の作成(タイムシート作り)かなあ?そういう仕事のかかわり方なら僕も小遣い稼ぎによくやってるが、クレジットに出されたことはない。ちょっともやっとしてます。
途中下車。
仕事がどんどん押し寄せてきて、先週はダビング前の差し替えが3件、そのダビングが今週は内2件、という具合で、この前上げた絵コンテの分のカッティング(編集)も先週の予定だったのが2週ジャンプしてくれてやっと一息。そんな中、今日作業中だった一件の仕事を降りた。
数か月前に話が来た最初からスケジュール的に「きつい」ということは告げてあったのだが、制作がまったくの無策以上に、当然かかる手間を全部省こうとしていて、来週カッティングだというのだが、演出的には「無理だ」と感じたし、制作としてカットのチェックに演出を通す気がないとしか思えない態度だったので、「それはもう演出は要らないということなのでこれ以上はかかわらない」と言った。向こうもカッティングを乗り切るためということで已む無しと思ってたろうが、そういうわけで、降りたんだか降ろされたんだか分らないが、ひとつ仕事が消えた。
他の会社、作品での仕事でも無理っぽいスケジュールを何とかする(間に合わせるor延期してもらう)ということはあり、というかいつものことだが、結局それだけでは降板には至っていないので、割とレアケース。こちらにしてみれば、当初から制作の見通しが甘い、というか見通しがない。作画の打ち合わせを省き、原図を早く出さないといけないからと一部は相談なく(これが重要)制作が「チェック」し、一度も日報的な報告もされない。上がってきたレイアウトも、演出的にはそのままでは当然使えない。だから時間はかかるし、それは告げている。なのに強く要請するでもなく、スケジュールを調整するでもなく、ひたすら演出チェックの手間を回避しようとしているように見える。
あちらからは「演出がチェックを進めなかった」ということになるだろうし、一面の事実でもある。しかしさ、作画も超イージーに言語の壁のある会社に打ち合わせなく丸投げして、演出のチェックにも形式しか求めない(実際は形式すらすっ飛ばして)のであれば、そこに作品としての、仕事としての意味はあるだろうか?と考えざるを得ない。口ばっかりで約束を守らない演出を見限って、代わりの演出を立てたならまだわかる(僕もしょっちゅうその手の仕事で稼がせてもらっているしな)が、そうは聞いていない。なんだったんだろうね。
で、相変わらず目の前に広がる仕事を一つ一つ片付けてゆくしかないのだ。
コンテを。
絵コンテを久しぶりに上げた。1年くらいやってなかったが、やっぱり描くのに時間がかかる。演出のいろんな作業については速いほうだ、と自負してる(長所がそれくらいでしかない)が、絵コンテはあきまへん。それでも今回は割とスムーズにできたと思う。
ここでも書いたが、一昨年、描いたコンテは脚本にどうにも納得できず、好き勝手に構成から変えてやってみたものの、監督のチェックでほぼ脚本通りの形に整形された。そこは別に不満はないのだが、監督も監督で脚本の足りない部分は感じてたようで、改変の一部を残してくれていたのだが、メーカーサイドのチェックでそこはカットされた(以前のエントリーで残してもらったと書いた箇所とは別。そちらはオンエアまで生き延びている)。脚本ではあまりに唐突に、前後の脈絡なく登場するキャラクターがいて、お話に一貫性が欲しかったので勝手に膨らませて描写したのだが、メーカーさんに言わせれば「このキャラは主人公とレギュラーを引き合わせるためだけに作ったのだから余計な動かし方をしないでほしい。こいつとのやりとりがが中心のエピソードじゃないのに視聴者に誤解を与える」みたいな。
まあ、立場的にもっともな意見ではあるのだが、「そのためだけに作った」からキャラクターの背景やストーリー上の整合性が要らない、ということにはならないのである。そして、多くの物語は、「そのためだけ」の作為を見えないようにうまく隠すことで成立しているのだ。こちらとしては、余りにその作為があからさまなので嫌だったからの処置だったのだが。
…とつらつら書いたがそれは本題ではなく、この時はなんか変えなきゃいかんと思って思慮するのに、描き始めるまでに時間をつぶしてしまったので、その反省から今回は脚本通りに早く仕上げよう、という課題があったわけですよ。
…そう云う風に半ばできたかな、とは思う。
しかしですよ、脚本から1シーン(やむなく)削ってやってみても尺が5分オーバー、って何それ怖い。これから監督チェックでどう直されてくるのか、楽しみです。たまにある全直しとかでもそれはそれで。
息切れしてます。いや、一息入れてます。
毎週のようにラフ原画の演出チェックupの区切りが来るという理不尽な世界で戦っている。
何人もの制作に「今何本持ってるんです?」と訊かれる。何本かは忘れた。考えない。この前は、ある作品の監督から、カッティング時の映像を観て「何本も持ってるようなのに、いろいろ手が入っているけど、作品ごとの切り替えってどうしてるんですか?」と尋ねられた。
答えようがない。切り替えるとかあまり考えていない、というかそんないろいろできないので、毎回考えてできることをやってやっとのことで出してるだけだからだ。リソースが自分の中にそうそう豊かにあるわけでもない。
「手間のかかることは後に回す」「毎日全力疾走はしない」という逃げで、何とか毎日を渡っておりますよ。
ペンネームの意味と理由。
この前放送された作品で絵コンテをしばらくぶりにやってクレジットされたので、ちょっとだけ気にしている人がいるようだ(と気にする自意識過剰)。
絵コンテに使っているペンネームは、名字と名前をひっくり返して、似た響きの名前を持ってきたもの。あと、学生時代に私淑していた、池田浩士さんという京都大学の教員だった学者の名前もヒントになっている。
なぜ絵コンテをわざわざペンネームで描くようにしたのかというと、ひとつは一話で2回クレジットに名前が出てお得だな、と思ったから。富野喜幸さんが「斧谷稔」で絵コンテ描いてたりするのを何かカッコイイな、とか思ってたからでもあるかも。
真面目な理由もあって、前にもブログに書いたことがあるが、30歳を過ぎて演出志望の制作だったころ、プロデューサーに「お前は演出になっても処理屋ぐらいにしかなれないだろう」と言われたことがきっかけにはなっている。
絵コンテこそが演出の真髄なのだ、という主張を否定はしないが、実際の演出作業である「処理」を一段低く見るということに、しかも制作の頭領であるプロデューサーの言葉であることに反感を覚えた。絵コンテと処理を分けて発注するのは発注する側、つまり制作の都合であり、そういう仕事を欲しているのは制作なのだ。「処理屋」とはまたバカにした言い草ではないか。
そういうわけで、演出、絵コンテをそれぞれ独立した工程、仕事であり、評価されるべきものと考えて、あえて別々の名前にしてありますよ。