瓦礫の中のゴールデンリング

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あしたのジョーを観た。

あしたのジョー」の実写版映画が何年か前に公開されました。漫画が連載されていた当時も石橋正次主演の映画があったので、2度目です。映画の公開時、ジョー役の山下智久、力石を演じた伊勢谷友介が本物のボクサー並みの身体づくりをしたというのでかなり話題になり、興行的にも成功したようです。
それがこの前CSで放送されていたので、観てみました。
正直に感想を一言でいうと「暗い」。山下智久があまりに暗すぎる。というより、最近流行の自然体演技というやつでしょうか、乏しい表情でボソボソ喋るだけで、目つきの悪い何考えてんだか判らない矢吹丈が、これまた表情乏しい力石徹とやりあっている印象で、映画全体の雰囲気が寒い。
矢吹丈は、原作やアニメを見るとわかりますが、もっと喜怒哀楽の激しいキャラクターだし、普段は微笑みを浮かべたり、口笛を吹いてたりする。そして、他のちばてつやの漫画の主人公と同じく、ジョーは空元気でも陽気に振る舞う。しかしこの映画のジョーは常にぶすっとしていてほとんど笑顔を見せない。
冒頭、ドヤ街にやってきたジョーは土手に寝っ転がっていて、ジョーの持ち物をくすねようとした子供たちに出会う。帽子を顔において寝たふりをしてるジョーがぼそりと「金なんかねえぞ」というと子供たちは逃げてゆく。ジョーが逃げる子供たちが落していった紙飛行機を投げると、子供たちはそれに気づいて足を止め、CG紙飛行機の飛んでゆく様子に目を奪われる。
シーンが変わるとジョーは、なぜかドヤ街の定食屋で、金もないのに(無銭飲食するつもり)子供たちを前にテーブルいっぱいに広げられた料理を食べている。同じ店にいて「酒をおごってくれ」と絡んできた酔っ払いの丹下段平(香川照之)が、借金取りのやくざの手先である西たちといざこざになり、騒ぎの中、西が気付かずに紙飛行機を踏みつけたをきっかけに、ジョーはやくざたちを叩きのめす。段平は、その喧嘩の最中にジョーにボクシングをやらないかと口説くがジョーは聞く耳を持たず、殴り倒すのに夢中。警察が来ていきなりジョーは捕まってしまう。
この後少年院の話になるわけですが、ジョーはここまで全く笑いを見せません。子供たちは映画の最後までジョーを応援するのですが、ジョーのどこに惹かれたのかは画面で見る限りわからない。ジョーは紙飛行機(ラスト近くにも登場して、ジョーと子供たちの関係の象徴という扱いだが、ジョーと子供たちの関係描写自体が希薄なのであまり役に立っていない)を投げただけで、定食屋でも子供たちに飯をおごるでもなく、ただの不愛想なお兄ちゃんにしか見えません。また、原作では、段平がジョーに惚れ込み、ボクサーは体を大事にしなきゃと身を盾にしてやくざからジョーを守る、その後もいうことを訊かないジョー(ジョーはドヤ街で厄介者扱いされながら、子供たちと一緒に詐欺まがいの金集めでドヤ街にユートピアを作ろうとする)を片想い状態でボクサーにしようと踏ん張るという過程があるのですが、全部すっ飛ばしているので、段平がジョーとの関係は非常に希薄なまま、「あしたのために」のハガキを送ってくるし、なぜかジョーがハガキを破り捨てた後に熱心に練習を始めることになってしまう。
劇場版アニメの1作目も、ジョーが少年院に送られるまでは10分ほどでさらりと流しているが、段平がジョーをかばうとか、逮捕の時は段平がジョーを殴り倒すとかという描写は残っているし、捕まった後ジョーに対する心理テストで性格や生い立ちを示唆するシーンもある。だから観ていてキャラクターの関係も性格も判りやすい。しかし、この映画のジョーや段平(出っ歯のメイクや眼帯、腹巻まで再現している)はコスプレをばっちり決めているが、何を考えているのかわからないし、互いの関係が掴めない。丹下段平はなぜ眼帯をし、ドヤ街で飲んだくれているのか。ジョーはなぜボクシングに夢中になってゆくのか。段平のボクシングへの執着がジョーを巻き込んでゆく、そこを描かないと、物語は始まらない。この導入部がまず決定的に拙い。
少年院での力石徹との出会いも、あまり印象的とは言えない。ジョーが初めて力石と殴り合うのは、原作ではジョーが院内の嫌がらせで豚小屋で堆肥集めをやらされた際、豚を利用して脱走しようとするとき。しかし、映画では少年院の食堂で理由もなくジョーが暴れ始め、騒ぎになり、力石と対峙することになる。原作の流れを消化しなければならないから細かい段取りを省いているのだが、そのため、ジョーはただの暴れん坊にしか見えない。
そして力石もまた笑わない。力石は、この映画の最後にイメージの中でジョーに向けた笑顔を見せるが、そこまでほとんど笑わない。力石徹も、原作では最初は余裕の微笑みをジョーに向け、次第にライバルとしてのジョーを認める親愛の笑顔を浮かべるようになる。力石はジョーに比べると「大人」で、空元気を振り回すジョーにとっては「越えなければならないが越えられない壁」であり、力石にとってジョーは、うるさいバカからどうしても倒さなければならない相手へと変わってゆき、お互いを認め合う。映画の中にもこの過程は描かれているが、思いっきり薄味。ジョーと力石、そして白木葉子(香里奈)が出会う少年院の部分は、互いの生い立ちや境遇、価値観を巡る葛藤が、力石戦へとなだれ込んでゆくその後のジョーの方向を決定づけるはずなのに、そこが欠けている。アタマのドヤ街の部分とこの少年院の部分は描写が不足しているし、尺も短すぎる。ここをじっくり書かなくてどうするのだ。
葉子は、この映画の中で一番大胆に設定が変更されているキャラクターで、実はドヤ街の孤児院にいて引き取られた養子で貧困に対する憎しみを抱いている。映画でも冒頭で閉鎖された孤児院を訪れ、帰りにジョーの喧嘩の場面に出くわしている。おまけに、力石が少年院にいた理由も、その葉子の出自を暴こうとした新聞記者を殴ったためということにされている(葉子と力石の関係という意味ではこれはこれでいい)。葉子は憎しみのあまりドヤ街を再開発して住民を追い出そうとしているが、ジョーはドヤ街をどう思っているのかが、さっぱりわからない。二人の間にドヤ街(貧困の象徴)の処遇という対立軸を置いてドラマにしようとしているが、ジョーとドヤ街の関係の描写が希薄なのだ。冒頭で出会った子供たちは最後までジョーを応援するし、定食屋の夫婦はボクサーとして有名になったジョーをドヤ街の誇りのように思っている、ようなのだが、ジョーの方はドヤ街に特に愛着や思い入れを持っているように見えない。最初にドヤ街に来てあっという間に逮捕されるし、その後少年院から戻ってきても段平と西以外の住民とはほとんど会話すらしない。
葉子は原作では最後の方でジョーに愛情を抱く自分に気づくのだが、映画は力石戦までで、さすがにホセ・メンドーサ戦までの続編を作る構想もないだろうから、葉子の位置づけが中途半端になりそうで描き方が難しいのはわかる。しかし、葉子とジョーは、違う世界にいる人間だからこそ互いに引き立つし、葉子の貧困に対する「憐れみ」こそがジョーの反発を呼ぶのではなかったのか。そして葉子が再開発を進めようとするというのも彼女の出自もこの映画には必要だったのだろうか。力石戦の後、葉子はなぜか再開発はやめようと思うと段平に告げるが、理由がわからない。試合後姿を消したジョーの戻る場所を残したい、ということだろうが、これは作り手の都合でしかなく、結局葉子とドヤ街の因縁を丸々削っても話は成り立つし、むしろその分尺をドヤ街の描写にでも当てた方がよかったんじゃないかとすら思う。
少年院を出た後、力石はボクサーへと復帰、ジョーと西も丹下拳闘クラブ所属のプロボクサーになる。原作では(としつこいが)まずプロボクシング連盟が丹下ジムを認めず、ジョーはプロテストも受けられない。その状況を打開しようとバックステージでウルフ金串を挑発して殴り倒し、道を開くと同時に遺恨ができてウルフとの試合に行きつくのだが、この映画では、そこはごっそり削られて、ウルフはジョーの必殺技であるクロスカウンター破りを披露するものの、ライバルの一人という描き方ではない。ウルフはただ、力石戦を回避したい白木ジムの駒として使われる凶暴なボクサー扱い。キャラクターの動機の部分がなくされてしまっているので、少年院後のジョーが戦う理由がよくわからない。
力石とジョーに表情が乏しいのは、役者の演技が下手だということもあるが、既にいろいろ書いてきたように、まず脚本や演出が問題だ。ジョーと対戦するため、減量のために自ら閉じ籠る力石が夜中に耐えられなくなり、外に出て:水を求めるが、蛇口はすべて針金で縛られている。そこに葉子が現れ、冷たい水をいきなり飲むと体に悪いと思って自分がやったのだと告げ、コップの白湯を渡す。しかし、力石は葉子に感謝しつつも、その白湯を床に捨てて部屋に戻る。原作にもアニメの劇場版にもある有名なシーンだが、我を失い、地獄から戻ってきたような形相の力石が「気持ちだけもらっておきます」と葉子に微笑むという重要なセリフと表情が削られている。なんでだろう。ここは力石のアップが必要だと思うのだが、俯瞰で広角気味に二人を横並びでとらえたショットになっている。
ボクシング描写についていえば、原作のクロスカウンターの説明がJAROに訴えられそうなくらい無理があったりするのだが、ウルフ金串戦のダブルクロス、トリプルクロスを含めて、漫画的な嘘と折り合いをつけつつ迫力を殺さないようにある程度は上手く描かれている。それでも有効打をほとんど打たずに打たれっぱなしからクロスカウンター一発で大逆転KO勝ちというのを実写で何度も見せられると嘘くさいと感じる。
泪橋は、原作が描かれたころ、既に川が暗渠になっていて、交差点になっていた。橋の下に丹下拳闘クラブがあるというおなじみの風景は現実には無理だったようだが、映画ではオープンセットで再現している(少々川幅と橋の長さがありすぎるような気もする)。この泪橋の欄干の傍に一輪のタンポポが生えているという描写がある。ジョーはこのタンポポを見守り、力石戦を回避しようと頼みに来た葉子が気付かずに踏んづけているのを注意する。踏まれても咲いているたくましい生命力をドヤ街やジョーに重ね合わせ、葉子の傲慢さを表しているということだろうが、この泪橋木橋なのだ。タンポポは確かに環境が少々悪くても生えてくる。土手の路肩でアスファルトを割って地面に生えるタンポポというのはよく見るが、土のない場所に生えないだろうし、木材に生えるタンポポ、橋に生えるタンポポというのは見たことがない。大体、タンポポは根っ子がまっすぐ下に伸びて長いのもよく知られているが、この泪橋にはそんな厚みはない。せめて橋のたもとの地面とかならともかく。ラストの方で、力石の墓の傍に盛り土があってタンポポが植えられているのを葉子が見つける。行方不明のジョーが戻ってきて植えたということだろうが、タンポポをどうやって土から引き抜いたんだろう。根っ子を切るとすぐダメになっちゃうのだが。鉢植えで育ててたんでしょうか。
この墓のタンポポの暗喩も、次のシーンでは本当にジョーが泪橋に戻ってきてしまうので、必要があったのかどうかすらよくわからない。というか、力石戦後の尺が長すぎる。原作で試合後一度も意識を回復しないまま死んだはずの力石が、この映画では葉子に自分のグラブをジョーに託するよう頼むという回想シーンが作られ、その葉子がジョーにグラブを預けようとして拒否されるところで、力石の死因(ジョーのテンプルへのパンチを食らってロープで強打云々という原作では記者が説明する部分)をだらだら無神経に話すというシーンがある。意味がない。二人の対決に懐疑的だった葉子が試合を見て感動し、ジョーにグラブを預けようとするぐらいでいいし、力石のロープでの強打は試合のシーンで既にスローモーションで強調されていて、観ればわかる。なぜか全部セリフで説明しようとしているのでやたらと長い。しかもその後、葉子は丹下拳闘クラブに現れて、段平にグラブを預けるので、このシーン、ジョーが去ってゆく背中があれば、葉子は必要ないのだ。
続編は作れないだろうから、ジョーが帰ってくるシーンを入れるのはわからないではない。力石との戦いで終わってしまっては希望のないラストになる。しかし、アニメ劇場版の「あしたのジョー」は、そこで潔く終わっているのだ。ジョーと力石の因縁がちゃんと深みを持って描かれているから、力石の死に絶叫するジョーで終わっても不自然ではない。それほどにジョーにとって力石という存在は重いはずなのだ。むしろ、なぜ姿を消したジョーが帰ってきたのか、この映画では明確に描かれていないことが気になる。一応伏線的に段平のセリフに対するジョーのアンサーはある。だがそれだけ。ジョーが戻ってこないと話が終わらないから、という作り手の都合に過ぎない。
1980年に公開されたアニメの劇場版は、この映画と同じく、ジョーがドヤ街に現れて力石戦が終わるまでをまとめている。1970年放映開始のテレビシリーズの再編集で新作部分がないのだが、この実写版よりはるかによくできている。いっそ、脚本そのままで撮ればよかったんじゃないかとすら(それは技術的に不可能だが)思う。